昭和46年03月21日 特別奉修委員
去年70年と云う時代をまあ境の様に、私の祈りの内容が今迄は私の皆さんに聞いて貰った事も、神様には実感しか届かんのだと。だから先ず自分が一番実感して感じる、自分が痛いなら痛い痒いなら痒いと云う事を願うんだと云う風に言って参りました。世界真の平和とか日本国中の事を願うとかと云った様な、祈りの言葉の中ににありますけれども実感が伴わないものは、神様に嘘を云う様なもんだと云う風に申しましたですね。
ところが去年あたりから、私の心の中にほんとにこの世界の隅々の事が、真剣に祈れれる様にお蔭を頂いて居ること。最近などはもう世界中の御霊様の事をね、祈れれる様に是は自己満足かも知れませんね。もうそれを祈らせて頂いた、又祈らせて頂いて居る事の有難さと云うか喜びと云うかね、ですから自己満足と云う事を申しますけれども。この例えば、そういう祈りと云う事は教えられたから、言われたからと云うて祈れるものではないという事ですね。
やはり自分の信心が育って来ない限り、人の事なんかどうでも良いのである。そりゃ話を聞けば、隣の事を願うと云うことも、近所の事を願うと云う事も、ほんとに理屈の上で言えば、例えて申しますとね。私共がほんなら、久留米中の事を願うと云や私も久留米市民の一人なんだから、自分の事もその中に入っているのだから。神様が喜びなさる事なら、久留米中の事を祈った方が良い事になるのだけれど。
聞いたからと云うて祈れるものじゃないですね是は。矢張り祈りと云うものは、切実なものじゃなからなきゃなりませんしね。ですからね私は世界中の事が祈れるとか、世界中の御霊様の事が、願えれる様になる願えると云う事が、自分ながら嬉しゅうなってから有難うなると云う事は、大変な事だとこう。まあ昨日も皆さん総会で聞いて頂いた様に、結局同じ一日なら一日を費やして、神様の事に一生懸命に打ち向かうと。
そのことが自分のことばっかりであるならば、それは杉山ですね。いわゆる寂しい事なんです。自分の事ばかりを願って居るんですから、こんな寂しい話はありませんよね。けども一日を費やした中にもちっと、いわゆる松山ですね。木遍に公と云ういわゆる心をもちっと公のことに、見方を変えてそこのことが真剣に願えれる。私は先程秋山さんと話したんですけれども。
昨日総会での皆さんの初めから最後までの話を聞かせて貰いよってから、真剣にその事に取り組んで居ると云う人達の話は違うがの。訴えて来るものが、と云うて話したことですよね。どんなに例えば、総代と云うても、如何に教会のことを云うて居るけれども、けれどもどうもやはり毎日お参りはしよる。毎日総代さん方が、毎日ああしてお参りされて、教会の事を願って居られるが。
あの例えば二、三人の総代さん方の話を聞かせて貰ってから感じた事は、何かいっちょんこう訴えて来るものがなかった。してみるとあれはもう教会全体の事を願いよる事は、一つのマンネリになってしまってね、結局は毎日参りよるけれども、まあ自分の一家の事であり、自分の事だけに終始しとられるのではなかろうか。もうやっぱり明けても暮れても矢張り教会を中心に、皆さんの事を考えて居ると云うのであろうか。
あれだけ訴えて来るものが、他の部長さん達の場合はあったと云う事なんかですね。まあこれはほんとにいつの間にか、あのようにお育て頂いて有難い事だとこう思いますが。これはねその結局お育てを頂きよらなければ出来ない。だからせめてねまあ教会を中心にした願いなら本気で出来るように。だから教会の例えば発展なら発展、今度の御造営なら御造営のこと、今度の記念祭なら記念祭の事にかけて、ほんならお参りが出来ておると云うことになったらね、自分の事はその中にあるのだけれどね。
さあそれもお育て頂かなければです、問題は自分の心の中に、教会の事を一生懸命お願いさせて貰いよったら喜びが湧いて来る。それはまあ自己満足と云や、自己満足かも知れんけれども。一生懸命人の事を願いよったら、喜びが湧いて来ると云うその喜びが湧いて来る、喜びと云う引き当てがある所の、私はおかげをね矢張り願って行かなければいけないなと云う事ですよ。何年参りよっても、矢張り自分の事だけで汲々としただけの信心ではね、いわゆる神様の願いに応える事は出来ません。
そこに私共が一つ氏子の大願。私共の大きな願いと云うものをです、正面に出せれる様な信心を育てる工夫がね。私は要るのじゃないだろうかというふうに思います。それにはやっぱりその事になりますかね、その事の為の矢張り修行がね、為されなければならんのじゃないだろうかと思いますね。自分の信心がほんなら、私でもついこの頃までは自分のことばっかりだった。私が急にですね世界中にこの思い祈りが広がって行く様なおかげを頂いてそれが例えば、嘘ではない証拠に心の中に喜びが返って来る。
喜びが返ってくる様なね願い。自分達の祈り願いと云うものを、つまびらかにしてですね、一つはぁこんな小さい信心では相済まんことだと云う風にね。ま皆さんが教会の事を願って居られる訳ではない、世界中のことを祈って居られるのじゃ無いけれども、帰って来るその喜びでね、自分の祈りの程度と云うものを、一つ知らして行かなければいかん。そしてよりほんとのものになっていかなければいけんと云う事を思いますですね。
どうぞ。